「女性が活躍できる環境と仕組みつくる」を理念に掲げ、400名以上のフリーランス女性のネットワークをつくり、女性起業支援、子育て女性支援を行っています。
マインドワーク®を受講する中で、昔の自分を思い出したので、書き残しておこうと思います。
子どもがカワイイと感じない自分に劣等感
24歳で結婚し、26歳で長男を生みました。長男を出産する時は、12時間ぐらいかかり、夜中に生まれたのを覚えています。夫は付き添ってくれ、背中を擦ったり、水を含ませてくれたり甲斐甲斐しく対応してくれました。
私は長女だったので、兄弟では初孫、夫側は4人目の孫でした。今の奈良県総合医療センター(旧 奈良県立病院)で出産したのは、甲状腺橋本病を持っていたからです。
出産の時に出血多量のリスクが有るため、助産所では生むことができず、いろいろ考えた結果、総合病院にしました。当時、とても面倒見のよい助産師の看護婦さんがいて、私のこころをおっぱいマッサージと一緒にほぐしてくれたことを覚えています。
上手に授乳ができなかったり、母乳の量があっているのかわからなかったり、おむつの代え方もわからず、泣いたらなんでないているのかわからず、寝ていたら死んでいないか不安になり、病院の中ですでに若干、病的な心理状態でした。
実家に戻ってもそれは変わらず、あまり眠れなかったことが辛かった。子どもがかわいいと思った記憶があまりないんです。
今ならそれは、脳のホルモンバランスが崩れたことが原因で、当たり前のことと言ってあげられるのですが、20年前はそんな情報はありませんから。
常に慢性の睡眠不足。体中のコリがひどく、当時、ダイエーが近所にあり、週に1回、夫に2時間ほど長男を預けてマッサージに行っていたのですが、なかなかコリはほぐれませんでした。
子どもが中学卒業するまでは家にいて欲しい
子どもが1歳のときに夫に「私、働きたいんだけど」と言ったら「子どもが大きくなるまでは、家にいて欲しい」と言われました。「子どもが大きくなるまでって、何歳まで?」と聞いて「中学卒業するまで」と答えられ「子どもが二人になったら20年近く家にこもることになるのか」と絶望に近い気持ちになりました。間もなく次男ができ、ひどい食物アレルギーの子だったので「これで外に働きにいくのは無理だ」と諦めてしまいました。
公園で声掛けられて断ったら二度と誘われなくなった
一人目なのでそれが当たり前だと思っていたのですが、長男はものすごい癇癪の持ち主。おまけにだんだん生活リズムが昼夜逆転し始めました。
3歳ぐらいの時に夜中にメチャ目が冴えている長男と若手漫才の番組を見ていたら言葉がわかるのか、ゲラゲラ笑っているのを見て、「関西人の血はすごいな」と思ったものでした。
そんな頃、初めて公園で遊んでいるママグループに家に来ないかと誘われたことがありました。ちょうどお昼前ぐらいだったのですが、私達は、公園に出てきたばかり。きっと無理に連れて行ったら癇癪を起こすとおもい、お断りしました。そしたら二度と誘われることはなかったです。
幼稚園で初めて遊びに行った家で出禁をくらう
長男は、ミニカーやプラレール、ブロックが好きで好奇心旺盛なので、他所の家に行くと必ず勝手にどこかの部屋に行き、引き出しをあけて、何かを触るということをしていました。そして、たいがい何かを壊す。おもちゃ券を持って何度謝りに行ったことか。。。自分の思い通りにならないと癇癪を起こし、友達ともすぐにトラブルになります。
幼稚園で、初めてお友達の家に招かれて遊びに行きました。帰り道にそこのお母さんから
「うちのことは合わないみたいだから・・・」
と暗に出禁をくらい、家で泣いたことは今でも覚えています。
昼は長男を追いかけて、夜は痒がる次男を一晩中擦って
上二人の子育てで、楽しかった記憶が全然ないんです。いつも長男の癇癪との戦い、激しく動き回る長男を次男を背負いながら追いかけ回していました。次男はひどいアレルギーの持ち主で、新生児湿疹も他の子よりもひどかったんです。夜も眠りが浅くなると全身痒くなり、一晩中、擦っていました。とにかく疲れていたし、とにかく眠かった。
この頃の私に今の私がかけるアドバイスは、「保育園入れよう」
もし、この頃の私が今の私に相談してきたら、迷わず保育園に入れようって言います。ママの気持ちに余裕がなくて、一人で育てるのは、限界だったと思う。夫は、長男が生まれた日に「俺も仕事がんばるよ」と言った宣言どおり、夜中の2時に帰ってくる人でした。
せめて、この頃、夫が定時退社をしてくれてたら、一人で抱えることはなかったんじゃないかな。
夫が無理なら保育園に入れて、専門知識のある先生に見てもらっていたら、もっと早く効果的な療育ができたんじゃないかな。って思うことがたくさんあります。
3人目の娘ができるまで、子育てって楽しいものって思うことができなかった。
その後、子育て支援のボランティアを通して、いろいろな人が自分の人生や子育てに関わってくれて、地域で子育てさせてもらったから今のWFCを作ろうと思ったのですが、それは、また別の機会に。