訪問プレミアム保育・カウンセリング with me 代表〜藤村いづみさん〜子ども達の未来のために考える力・幸せになる力を!
訪問プレミアム保育・カウンセリング with me 代表、子ども達の未来のために考える力・幸せになる力を!
「BLOOMメンバーへのインタビュー企画」今年のインタビュアーは池内詠子。フリーアナウンサー・司会者として様々なジャンルの方々にインタビューをしてきた私、キャリアコンサルタントとしても多くの方々に話を聴いてきた。そんな私が、働く女性たちに仕事の話はもちろん、生き方、家族、心の声、夢、リアルな本音に迫ってみる。
いづみさんにインタビューした日の数日後から、世の中は新型コロナが広がり、とうとう小・中・高校の休校、そして状況は日に日に変化している。
いづみさんはその後どうしているだろう・・・お母さん達のヘルプに走り回っているのではないだろうか・・・。
第29回 訪問プレミアム保育・カウンセリングwith me 代表 藤村いづみさん
お兄ちゃんと弟さんにはさまれて育ったいづみさんは、タイヤの付いたものが好きで、女の子ぽいものには全く興味を持たずにいたそうだ。
中学に入学してから、近所の英語の先生のところに通うようになった。何年も前から予約の必要な人気の先生、絶対に“5”が取れると評判の先生。いづみさんは、英語が大好きになり、一生懸命勉強したそうだ。もちろん英語の成績は抜群。
やがて高校生になり、進路を決める時、いづみさんは自然な流れで英文科を目指した。ところが、なぜか?ことごとく英文科は落ちた・・・。その時お母様がこう声をかけた「幼稚園の先生になりたいとずっと言うてたよ。」 それなら!と、一校だけ保育科を受験したところ合格!それも、落ちた英文科よりも偏差値の高い保育科に合格したのだという。不思議さを感じながら、短大の保育科で2年間学び、幼稚園教諭免許と保育士資格を取得した。
幼稚園の先生に、そして結婚
卒業後、3年間、奈良市内の幼稚園に勤務した。
学生時代のバイトで出会った8歳年上のご主人と23歳の時に結婚、やがて妊娠。
妊娠中にいづみさんに辛いことが次々に起った。お世話になった園長先生の死、阪神・淡路大震災、ご主人がスキーで全治6ヶ月の怪我、地下鉄サリン事件では一本前の地下鉄にお兄さんが乗っていたことも。人の命について深く考えながら妊娠期間を過ごした。そして女の子を出産。
出産後、実家で過ごした後、家に戻って3日後、義理のお父様が末期の肺癌であることがわかった。余命3ヶ月の宣告・・・できるだけのことをしてあげたい・・・。
生後間もないお嬢さんを連れて、病院に毎日通った。新生児の子育てと看病で、いづみさんは疲労の極限。産後うつも重なった。同居を提案された時には“正直なところしんどいな”と感じた。
お父様を見送った後、義理のお母様とご主人といづみさんの3人の関係がぎくしゃくし始めた。体重が激減、かかりつけ医に“脳に酸素が回っていない、今までよく頑張ったね、離婚してもいいんじゃないか・・・。”と言われるほどの状態になっていた。
ご主人に話すと、一時的に実家に戻ることを許してもらえた。別居の開始だ。お嬢さんは2歳半になっていた。
幼児教室の先生、児童養護施設、営業の仕事・・・
お嬢さんを連れて実家暮らしを始めたが、ご近所の目もあったため、中古マンションを購入し、幼児教室の講師として働き始めた。教室の子ども達が成長する様子に、保護者も喜んでくれるし、何より自分自身のやりがいも感じた。“天職だ!”と感じる日々。
しかし、その頃、虐待される子どものニュースを目にするようになっていた。自分が担当する子ども達とは真逆の立場にいる子ども達の存在、親に殺される子どももいることに心が痛めた。そして、お嬢さんのために、学校から帰ってきた時に家にいてあげたいと思うようになった。
そんな時に、児童養護施設が開設されることを知る。
6年間勤務した教室を退職し、その施設でお昼間の保育士として時短勤務が始まった。“虐待の子どものケアをしたい・・・”
しかしその思いは、全くの独りよがりの考えだったということを思い知った。実際に虐待されている子ども達に向き合うと、自分が打ちのめされた。理想に燃えていたけれど、現実を突きつけられ、落ち込んだ。
自分自身の保育技術の無さを痛感した。子ども達を笑わせることに心を傾けることで、次第に自分の保育ができるようになっていったそうだ。
ところが、悲しい事件が起きてしまった。施設を出て、お母さんと暮らすことになった男の子が・・・お母さんから虐待され命を落としてしまったのだ。保育や幼児教育という役割の中での自分の無力さを痛感した。幼児教室では必ず親御さんと接していた、しかし施設内の保育の仕事では直接親御さんに関わる機会はなかったのだ。なんでこんなことが起きるのだろう・・。
ちょうどお嬢さんが中学生になる頃で、しっかりお給料のあるところで仕事をする必要もあったため、施設は3年勤務して退職。その後新しい仕事に就いた。とある学習塾の事務局のマネージャー、先生方の指導や研修、教室を増やす仕事だ。
フルタイム勤務の営業職だったため、十分な収入も得られたが、自分に合わないということも感じていた。営業は新鮮でもあり、組織の中で働くことにより、男性社会を知る機会にもなったが、どこかで理不尽さを感じていた。“この男の人たちは、家の排水溝の掃除をしたことがあるかしら?塾のお弁当の心配をしたことがあるかしら?”そんな考えが浮かんだという。
“バリバリのビジネスマンと専業主婦の奥様の家庭” そして自分も含め“世の中のシングルマザーの家庭” この二つを比べて考えることが多かった。
そんな時、実家のお母様の病気、そしてお嬢さんの原因のわからない体調不良などが重なり、仕事を辞めることになった。
天職に復帰!そして起業!
選んだのが古巣の幼児教室! いづみさんの天職にパートで復帰した。
仕事をしながら、交流会や勉強会に参加することが多くなった。6年前に商工会の創業スクールで学び、自分が一番したいことである“訪問保育”で起業できるかもしれないと考えた。
そして、2014年2月14日 with meを設立。インタビューをした日は2月14日。今日から6年目というアニバーサリーだった。
屋号をwith me(私とともに、私と一緒の意)としたのは、「いづみ」と語感が似ているという以外に大切な理由があるという。それは保育中、お母さんがそばにいなくても「私と一緒」にいるのと同じくらい、お子さんを安心して預けていただけるような保育士でありたいという想いと、いづみさん自身への誓いなんだという。とことん大笑いして遊びながら、本来子どもが持っている能力を確実に引き出し、伸ばしたいと語る。
これまでの経験を全て生かし、お母さんに虐待されて命を落とした男の子のような状況を、少なくとも自分が関わり、接するご家庭の中からは絶対に出さない、そのために自分ができることを最大限にやっていく、それがいづみさんの信念だ。
ご主人とはその後どうなったのか・・・実はお嬢さんが17歳の時に離婚が成立。4年前にご実家のお母様を見送り、お嬢さんは自立、子育てもようやく終了した。
今の自分は全ての経験があってのこと、別居してシングルマザーとしてやってきたからこそのこと、“バツイチではなくマルイチです!”と。
藤村いづみさんリンク
池内後記
いづみさんの笑顔は本当に優しい。そんな笑顔の奥に、お一人でお嬢さんを育ててこられた背景があることに驚いた。「with me 」私と一緒に・・・もしかしたら、いづみさんご自身が、お一人でお嬢さんを育てながら、いつも心の中でこう呟いておられたのかもしれない・・・それは一緒に見守ってくださるご両親様やお友達の皆さんへの感謝の気持ちでもあったろうし、働くママを見て育ったお嬢さんに対して“ママはいつもあなたと一緒だよ。”ということもあっただろう。
いづみさんの活動が、ママたち、子ども達の笑顔に結びついていく・・・素敵だな。